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ラブパレード’92:サウンド・オブ・ファミリー

Matthew Collinが1992年のベルリン・ラブパレードを回想する。パレードはいかにしてイギリスのサマー・オブ・ラブにインスパイアされたのか?

Mixmag Japan | 22 February 2021

ダンスカルチャーのバイブル『Altered State』の作者・Matthew Collinが2015年に発表した著作『Pop Grenade』からの独占引用で、1992年のラブパレード(@ベルリン)を回想する。この一大センセーションは、どのようにイギリスのサマー・オブ・ラブにインスパイアされていたのか?

そして空が割れ、雨が降ってきた…。我々のトラックが無秩序な行列を組んでヴィッテンベルクプラッツに差し掛かった時、稲妻が天空のストロボの様に点滅、雷鳴が壁に衝突し、サウンドシステムから発せられるスネアドラムのパチパチという鳴りと真逆の音が聞こえた。豪雨がさらに激しくなる中、土砂降りを天からの祝福として受け入れるために腕を空に伸ばし、トラックのスモークマシンから頭上を低く流れる白い霧の雲を幾何学模様に切りつけ、エレクトロニック・ベースの濁った音漏れとシンセサイザーの強烈な金切り音がスピーカーからさらに流れると歓喜で叫んだ。…その瞬間の賛歌こそが「Der Klang DerFamilie」(=サウンド・オブ・ファミリー)だ。

1992年7月ベルリン、私は「無法的な感覚があり、ミレニアルのパーティーがトップスピードで行われている」と、その直後に提出したレポートに書いた。未来に向かい疾走するこの街では何もかも可能だと言う感覚。古いルールは存在を消し、新しいルールがまだ書かれていなかった場所だ。

当時のラブパレードは、その年約15000人のハードなテクノファンを集めた比較的不明瞭なドイツの現象だった。それはその時の我々にとって驚くべき人数だったが、7年後にパーティに集結した150万人のレイバー達に比べれば微々たるものだ。

90年代初めのラブパレードはまだ、ベルリンの高級ショッピングストリート・クーアフュルステンダムに再統一されたばかりのドイツの各地から集まってきた、自身の存在の純粋な繁茂に浸り、全ての多様な強情の中にある贅沢な美しさを見せつける人々の集合体であった。買い物客は少し驚いていたが、この都市の風景をただ売り買いする場所としてだけでなく、私達の永遠ではない若さと無垢さを備えたカーニバルのフォーラムとして主張していた。

私は、Daniel Millerによってローンチされたばかりのレーベル〈NovaMute〉が支援する初のイギリス製サウンドシステム・トラックの走行を手伝うため、その年のベルリンに到着した。他のフロート車と比べると少しガタが来ていたが、その安っぽい小さな青いトラックはガタガタとクーダムへ向かった。

パレードには、前夜のパーティー帰りの適当に集まった都会っ子達がすべて直前に急いで組み立てたような、粋で楽しげな不安定さを感じた。後期になると、ラブパレードのフロート車は豪華な作りになっていき、1992年にはフロート車と呼べないものまで出現する。

トランス状態のレイバー達がボンネットに横たわった洒落た白いリムジン、カラフルなフィリピン式「ジーピー」の前を行進する赤毛の火吹き師の女、電動車椅子の様な物を軍服で乗り回すエキセントリックな男、下着とブーツだけでショッピングカートを押す輩、そしてローラースケートや自転車で群衆を潜り抜ける者たちを思い出す。このパレードの後期によく見られた衝突や喧騒は無かった。土曜の午後の真っ只中に街の大通りで、文化的に除け者にされた人たちが暴動を起こすとはまだ誰も想像していなかったのだ。

大きいトラックの中には、Planet(当時のムーブメントの中心的クラブ)の巨大なピンクのうさぎの様に装飾し耳が車体の横に垂れ下がっている車や、パンクからハードコア・テクノDJに転身したTanithのトラックも見られた。

1992年の彼のフロート車は、『地獄の黙示録』の不気味なジャングルの水路で火花を散らすMartin Sheenのパトロール・ボートを模しており、Rolling Stonesの代わりに兵器級のテクノを流していた。「それはカモフラージュやネットなど戦車の様に装飾されており、DJは発狂した軍司令官のように砲塔から軍隊を率いている」と、当時の私は綴っている。「ベースドラムが響き渡る中、彼の指示で煙と共にオレンジの炎が発射された。恐ろしい軍国主義的風景に見えた瞬間、戦闘装備をした兵士のうちの一人が振り返り、背中に描かれたピースサインを見せつけた」。

平和の兵士は、初期のベルリン・テクノの真髄を抽出したヴィジョンである。Tanithはさらに翌年、どういうわけか手に入れた廃戦車でラブパレードに登場した。そのときの彼の象徴的な写真がある。カモフラージュ服に身を包み、ロシアのビヒモスの上に力強く立ち、まるでミュータントのクルーを彼の音楽の呪文にかける為の精霊を呼び出すかのように、ブードゥー教の頭蓋骨をかざしている。

興奮した者たちは、デパートやスーパの外に繰り出していた。筋肉質な男達は鍛え上げた胸を見せびらかすために腰まで裸になり、私達の後ろでぐるぐると跳ね回っていた。そんな中、フラクタル柄のシャツを着た長い髪の者がヒッピーの妖精のようにポーズを取っている。ある男は化学兵器防具とガスマスクを身につけスキップし、また別の男は下着1枚で道のど真ん中にうつ伏せになり、頭の中の宇宙をじっと見つめていた…。

1989年ベルリンの壁が崩壊するほんの数ヶ月前、ラブパレードは長年の理想家Matthias Roeingh(Dr Motteとして知られていた)によって考案された。彼はベルリン生まれのDJで、80年代初頭にパンクバンドとして活動した後、市内で初のアシッド・ハウスのクラブを数件運営していた。

Dr Motteにとってアシッドハウスは、80年代の城壁都市から意識の領域への脱出用ハッチだった。夢見る者達は、現実世界をすり抜けて自由に浮動する事が出来たのだ。「それは新しい世界を発見するようなものだった」と彼は後に述べている。「ベルリンには壁があったが、突然その壁にドアが現れ、裏側を見ることができた…。素晴らしかったよ。それによって私達はオープンマインドになり、自身を発見する事が出来た」。

Dr Motteのインスピレーションになったのは、1988年にイギリスで猛威を振るっていたアシッドハウス「サマー・オブ・ラブ」の経験だ。「私の友人たちが、ロンドン、マンチェスター、シェフィールドで行われるアンダーグラウンド・パーティーについて教えてくれたのさ。警察がパーティーを止めに入ってサウンド・システムを没収しても、人々はまだ通りでステレオを持って踊り、ストリート・パーティーをしたんだよ」と、彼の目は懐かしさの熱気で輝いている。「ああ、ストリートパーティー!どうやったらここでも同じ事が出来るか? それをすぐに考えた」

1989年のある日の夜遅く、Dr Motteは彼の人生で最も記念すべきいたずらを思いついた。それはその後の10年を定義し、都市全体のイメージを変える助力にすらなったが、当時は知る由もなかった。Dr Motteは、まだ分断されていた都市の中心部で幸福と団結のデモを行うことを決心する。これは、彼が正しく善であると信じていたもの以外すべてに対する抗議であった。彼の仲間を地下の暗闇から光の中に連れ出すレイバーのプロムナード、それがラブパレードだったのだ。

当初、彼はドイツ語で「Friede、Freude、Eierkuchen」をイベントのスローガンとしていた。これは「平和、喜び、パンケーキ」という意味の、皮肉っぽくユーモア溢れるスローガンだ。Dr Motteは「これは平和、音楽への世界的な理解、そして公平な食糧配給に対する抗議である」と主張し、このイベントを政治デモとして登録申請をした。それは、警察出動、あるいはイベント後の清掃に金銭を払う義務が無い事を意味する。当局はそれを真剣に受け止め、その結果として彼は許可を得たが、当時のDr Motteの仲間の中には街の中心部でレイヴを開催するなんて“詐欺まがいだ”と信じる者もいた。「あれはトリックだ。でもそれは典型的ベルリンのアナーキーらしさだから、僕は好きだったよ」と、DJ Westbamは語る。

1989年に初めて行われたラブパレードでは、スマイリーマークのTシャツとバンダナ、80年代のファッションやポストパンク時代のモノクロのサングラスで着飾った約150人のレイバー達が、その時代のアシッドハウスに合わせて手を振りクーアフュルステンダムを華やかに歩いた。「スタート地点はヴィッテンベルクプラッツだった。僕らは小さな3台のワゴン車、スピーカーと発電機と共に立っていたんだ。…そしてテープデッキ!テープデッキを使ってたんだよ!」と、Dr Motteは思い返す。「イギリスのように雨と呼べない霧雨が降っていたね。僕らは立ち尽くして、いつ始めたらいいかわからなかった。そこに警察官が来て聞いたんだ。『今始めるのか?』って」。彼は、法の執行官であるべき人物が、テクノの反乱者にいつそのささやかで無秩序な暴動を始めるのかと聞いたばかばかしさに笑った。「何もわからなかったんだ!誰もやった事が無かったからね」。

その日の参加者には、その後のベルリンのテクノシーンの中核を担う者達がいた。「私は今までに経験のないエネルギーを感じて、背中に稲妻が走った」と、Dr Motteは言う。DJ Westbamは、その当時からこれが何か重要なものになると感じた、と主張する。「ほんの少数の集まりであったとしても、どういうわけか、私たちは歴史を作っていると感じられたんだ。それが、たった数年で100万人になるとは思わなかったよ。その時、数ヶ月後にベルリンの壁が崩壊すると言われても、もちろん信じなかった」。

私が1992年のラブパレードでTanithと話をした時、その熱意はまだ湧き立っていた。彼は「クラブという場所は、東ドイツと西ドイツが最初に集った場所であり、そこで人々は皆変わらないのだと認識したんだ」と私に言った。その声は切り開かれた可能性に対する希望で満ち溢れていた。

初期に参加していた者の多くは、これが真実であると今でも信じている。ラブパレード主催者の1人であるJürgen Laarmannは、数年後テクノがベルリンの壁崩壊後の統一に重要な役割を果たしたと主張した。「ストロボスコープとレーザーで照らされたダンスフロアは、ドイツ再統一が現実となり人々が本当に平等であった最初の場所だった」。

ラブパレードは毎年爆発的に成長した。そして1996年までには市内中心部の大通りの狭い空間に収まるには大きくなりすぎた為、クーアフュルステンダムを離れざるを得なくなった。これは都市の消費者空間の定期的奪還としてのサブカルチャーの過去との明らかな決別となったが、その新しい会場「6月17日通り」には、前者とは違うまた別の強力な意味が込められていた。そこはアドルフ・ヒトラーがナチスのパレードに使用した通りで、1953年に東ドイツの共産主義政権に対する暴動後に改名された場所だ。しかし、そこは今巨大なレイヴ会場になったのだ。新しく統一されたドイツにとって、これ以上明確な象徴はあり得なかったであろう。「壁が崩壊した戦後のドイツの一種の改革であった」とDJ Westbamは語った。「全く違う世界を見せてくれたんだ」。

数字上では、パレードはミレニアムの変わり目にピークに達した。古きベルリンの壁の影でサブカルチャーのルーツから離れていくにつれ、民衆主義的な蛍光色のレイヴの祭典に変わっていった。それは、パレードの商業化に抗議する毎年恒例のテクノ反対デモ“Fuck Parade”さえ引き起こした。

最終的に多くの人の目に究極の裏切りと映った出来事が、ラブパレードの名がフィットネス・ジムのチェーンに買収された事だ。そして2007年、イベントはベルリンからルール地方に移動する。しかし2010年7月、ドルトムントで群衆が将棋倒しになった事により21人が亡くなり、残忍ながらも回避可能であった悲劇により終息を迎えた。ラブパレードは終了したが、ベルリンで行われていた時代には、快楽主義的ワンダーランドとして、またヨーロッパのクリエイティブな都のひとつとしての、街の新しいイメージを形成するのに一役買った。

それは、決して繰り返すことのできない歴史の中で、ユニークな瞬間を生き抜く若い冒険家達の高い理想とクレイジーな夢を基にして構築された、というのが今日まで続く認識だ。想像もしていなかった事が突然可能になったのだ、と後にDr Motteは振り返った。「当時はすべてが即興だった。楽園で、強烈で、僕らは何でも出来たし、誰も気にしなかったんだ」。

 

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