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「すべてが集結し、すべてになった」:オーストラリアのエレクトロニック・ミュージックの黄金時代

オーストラリアのダンス・ミュージックが独自のアイデンティティを見出し、「障壁がなくなった」時代を振り返る

Mixmag Japan | 18 February 2021

The PresetsのKim Moyesは、シドニーでモンスター・アルバム『Apocalypso』のオープニング・トラックを初めて聞いた5万人のファンの熱狂に気圧され、彗星のような勢いの衝撃に耐え、ドラムの椅子にやっとの思いで座っていたのを思い出していた。

それは2007年12月22日――。The Presetsは、Sydney Showgroundsアリーナで行われた「Nevereverland」で、Daft Punkのオーストラリア・ツアーを締めくくる最終ライブ・パフォーマンスのサポートアクトを務めていた。このフェスはオーストラリアのレーベル〈Modular〉によって開催され、その年のMixmagでは「ロックがレイヴと出会う世界を完全に支配する」と表現されている。その勢いは、その後2年間は衰えを見せなかった。オーストラリアのエレクトロニック・ミュージックの黄金時代は、The PresetsやCut Copyによるヒット曲のリリースでピークを迎え、さらにPnau、Van She、Midnight Juggernautsらによるアルバムで始まった2008年に生命力をさらに強めた。

「バンドメンバーはDaft Punkのショーの1週間前にラジオに出演しただけで、特に何の期待も抱いていなかったんだ」。Moyesはそう回想する。「そのときの僕らは、音楽制作が佳境に入っていて外の世界からは少し離れていた。そしてビッグなフェスでDaft Punkのサポートをすることになっていたんだ。メンバーはみんな彼らのファンだから、一大事だとは思ってたよ。でも、ステージに上がって『My People』や『Kicking And Screaming』や古い曲もプレイして、あんなに盛り上がるとは予想もしてなかった。ヤバかったね。最高だった…。その時の気分は2009年の初めまで続いたよ。1年半か2年くらいの間、ショーに出る度に規模が大きくなって、エナジーも増していった。ワイルドだったね」。

The Presets – 「Kicking and Screaming」

その年の賞を総なめにし、オーストラリアのエレクトロニック・ミュージックをこれまでにないレベルの規模に引き上げたThe Presetsは、1年後にNevereverlandのヘッドライナーとなり、熱狂的なパフォーマンスに定評のあるCut Copyと共演した。

Cut CopyのDan Whitfordは、その年の始めに『In Ghost Colours』(2008年)がオーストラリアの総合アルバムランキング「ARIA Chart」でナンバーワンに躍り出た衝撃を覚えている。それは、ローカルのいちエレクトロニック・バンドに新境地を拓いた出来事で、The Presetsも数週間後に続いた。

『In Ghost Colours』をきっかけにCut Copyは海外、特にアメリカではおそらくオーストラリア以上の人気を博し、『Apocalypso』は母国でもさらなる人気を得て、認知度を高めた。両アルバムがリリースされたあとに開催された「Fuzzy’s Parklife 2008」におけるバイブスは、フレッシュかつ情熱的だった。

「ただ僕らは好きなことをしていただけなのに、どういうわけかメインストリームな音楽と繋がったんだ。その時のバンドはみんな実りの多い時期を過ごしていたよ」とWhitfordは語る。「本当にうっとりするような時代だった」。

The Avalanchesの革新的アルバム『Since I Left You』(2000年)はModularの初期のリリースで、新時代の始まりを告げる最初のターニングポイントであろう。このアルバムは、オーストラリアのエレクトロニック・ミュージックの面白さと世界的に評価される可能性を示唆していた。この勢いはメルボルンやシドニーの音楽シーンにも広がり、2003年から2006年にかけて両都市を繋げ、2010年までにフェードアウトするオーストラリアの音楽シーンの10年を築いた。

The Avalanches – 「Since I Left You」

レーベルの創設者Stephen Pavlovicは、The Avalanchesから最初のデモを受け取ったあとにModularをローンチさせた。レーベルの初期にあたる1997年にリリースされた、メルボルンのアーティスト達によるEP『El Producto』は、MoyesとWhitfordもバンド黎明期に大きく影響を受けたアルバムとしてピックアップしている。その後、Dan Whitfordはアマチュア・アーティストとしてModularとソロ契約し、2001年にThe Presetsにもインスピレーションを与えたCut Copy初のEP『I Thought Of Numbers』をリリース。そしてバンドメンバーを増やし、2004年にCut Copyとして『Bright Like Neon Love』を完成させた。

メルボルンにはライブのエレクトロニック・シーンは存在しておらず、Cut Copyはパンクやロックバンドと共演し経験を積んだ。Whitfordにいわく、「これは長い目で見ればありがたかった」。当時のローカルの雰囲気は、ジャンルで分けられたイベントが主流だったのだ。彼らのシーンはまだ存在していないのだから、暫定的にどこかのカテゴリーに入らざるを得なかったのである。それが功を奏し、メルボルンのエレクトロニック・バンドはロックミュージシャンに引けを取らない、エネルギッシュなパフォーマンスがストロングポイントになっていた。

それはシドニーも同様だったが、ラジオDJ・Ajax(Adrian Thomasのこと。2013年に残念ながら死去)を中心としたパイオニアBang Gang Deejaysがすべてを変えた。Sweat It OutのディレクターJamie Raeburnは、Ajax、Yolanda Be CoolのMatt Handleyと共に2008年にこのレーベルを創設。彼はロックアウト法*以前の人気クラブKings Cross近くにあった小規模なベニューClub 77でのパーティーについてこう語っている。「ハウス・ミュージックだけがかかるわけじゃないし、他とは違っていたよ、すべての音楽がなんでもミックスされていた。Ajaxはハードコアすらプレイしてたけど、すべてが上手くいっていたんだ」。

*ロックアウト法: ドラッグやアルコールによる犯罪を厳しく取り締まるため、2014年に施行された法律。シドニーの繁華街の夜間営業を制限する目的があった。現在は限定的に緩和されつつある

イギリス生まれのRaeburnはこの急成長の時代に対し、今まで経験したものと違い「オーストラリアらしく感じた」と言う。オーストラリアのダンス・ミュージックは自身のアイデンティティを見出し、エゴなき世界観を築いていた。そしてシドニーを代表するアーティスト達はインスパイアされ、繋がっていった。

Kim Moyesはその影響力を回想する。享楽的で、かなりリテラシーを求められるパーティが既にレイヴ・カルチャーを席巻していたが、Bang Gang DeejaysとAjaxがそれを複合させ、夜遊びを再定義したのだ。「テクノ・パーティ、ジャズ・パーティ、インディーズ・ナイト‥それらが2002年から2003年頃にすべて一緒くたに集結され、障壁が何も無くなったのさ」。

MoyesとHamiltonは共に音楽学校に通いクラシックを学んでおり、共通の趣味であったクラブにストレス発散に行ったり、エレクトロニック・ミュージックを聴いたりした。彼らは「セッション・ミュージシャンとしてふらふら」しながら、Paul MacやPnauのNick Littlemoreといった有名プロデューサー達と知り合い、音楽の新しい一面を学び、他のメンバーと共に前身バンドPropを始め、ある日のリハーサルをきっかけにThe Presetsが誕生する。Moyesは、世界を揺るがす大惨事の中でのシドニーの音楽シーンのターニングポイントを記憶している。

「2000年から2001年頃のシドニーの雰囲気は大きな変化を遂げていて、今振り返ってみると真の決定的な瞬間が9.11アメリカ同時多発テロ事件の後にあったんだ。僕らはほぼ世界の反対側に居たわけだけど、9.11が起きた週のことは覚えていて、あれはみんなにとって本当に大きな変化だった。みんな2、3日はショック状態にあったけど、数日後また出かける様になって、それ以降雰囲気が大きく変わったように見えたよ。みんなが出かけて、楽しい時を過ごして、友人と一緒にいて、できるだけ充実した生活を送りたいと思っているように見えた。それまでやってきたことに意味が見出せなくなって、どこに行くか、何をプレイするか、何を経験したいのかに新しいエネルギーが注入されたような気がしたんだ。僕らが何をクリエイトしたいか、人としてどんな場所にいたいかに大きく影響したよ」。

インディーズのダンス・エレクトロニックは、Ed BangerDFA Recordsを通してパリやニューヨークを初めとする各都市にも現れ始めたが、「オーストラリアのシーンは確実に独自のものだった」。

Modularがオーストラリアのサウンドの中心的なレーベルとなる中、同様のスピリットと意思を共にするコミュニティは、メルボルンからシドニーまでの一帯を繋ぎ合わせた。メルボルンのアーティストであるCut CopyとMidnight Juggernautshが交流を始め、同都市の中心的クラブHonkytonks(後の 3rd Class)は「僕たちのHaçienda(イギリスの伝説的クラブ)」だったとWhitfordは語る。アーティスト達は兄弟のような友情を築き、健全な競争心を持ちつつ常にお互いを助け合っていた。同レーベルは海外進出への道を歩み、ロンドン、パリを始めとする都市でイベントを行い、オーストラリアのアーティストの才能をショーケースしインパクトを与えた。国際的なインディー界隈が新境地を開拓するのに無関心な中、「僕たちは独自のバイブスを作り出したんだ。新しいことに挑戦するときは、他の誰かにあやかるのは難しいからね」とStephen Pavlovicは語る。

そして、新たな音楽のホットスポットに注目が集まり始めた。「2007年から2008年までのModularは、本当に好調だったよ。NMEに『世界で最もクールなレーベル』っていう記事が書かれたりしてね」とPavlovicは当時を振り返る。今やオーストラリアを代表するアーティストとなったTame Impala、Bang Gang、Canyons、Bumblebeez、Wolfmother、ニュージーランドのLadyhawke(同名のアルバムは2008年の重要なリリースだった)、そして国際組のKlaxonsとNew Young Pony Clubが名を連ねた。2008年のNevereverlandには、The Whitest Boy AliveとHercules & Love Affairらも参加し、Modularの10周年を盛大に迎えた。さらに同レーベルは3枚のコンピアルバム『Leave Them All Behind』をリリースし、専属アーティスト達を世界に紹介した。

Pavlovicは「この時期はみんなが愛するものに対して同じような方向を向いていたし、それを形にするのに最適なタイミングだった」と締めくくった。

同氏は2005年にModularの半分をUniversalに売却、さらに巨大レーベルと訴訟の結果Tame Impalaへの負債を負い、残りのシェアを2015年から2016年ごろに売却する。Pavlovicは自身を「後悔しないタイプ」と言うが、バンドが受けた影響は不運としか言いようがない。「あのころには僕も既に飽きていたし、先に進むべきだったんだ…。本来であれば、崩壊が起こる前に去るべきだったのかもしれない」。

若きスターBag Raidersによる「Shooting Stars」は2008年終盤のEPに収録されており、2009年にシングルとしてリリース。さらに、翌年バンド名を冠したデビューアルバムにも入っている。

Bag Raiders – 「Shooting Stars」

このトラックにより輝かしい時代に終止符を打ち、新しい時代の夜明けを迎える。Sweat It OutはModularの後継としてRüfüs Du Solと契約し、彼らの最初の2枚のアルバムとWhat So Notの最初のリリースを発表する。一連の作品の中には、当時ニューカマーだったFlumeの名前もあった。2018年にリリースされたレーベルの10周年コンピのライナーノートには、Ajaxへのトリビュートが掲載されている。 RüfüsのメンバーやVan SheのNicky Night Time、Bang GangのBeniらはレジェンドが遺した多大なる影響について記した。「私たちは合法的にクラブに行けるようになった瞬間から、Ajaxを何度も見に行きました。彼は、私たちのインスピレーションとなった多くのアーティストを教えてくれました。オーディエンスを盛り上げる方法も彼から学んだんです」。

Jamie Raeburnにいわく、「シドニーやメルボルンで多大な影響力を持っていたAjaxの訃報が伝えられ、そのころ行われていたグラミー賞は悲しみで包まれていた」。彼は現行のミュージック・シーンを成長させた人物であり、同じビジョンを持つすべてのアーティストを手厚くサポートし、人々のコミュニケーションの仕方にまでポジティブなレガシーを遺したのである。

アーティストの実験的な試みから始まったムーブメントは2000年以降、インターネットによってどこでも聴けるようになった。たとえば、Cut Copyはアルバム『In Ghost Colours』を完成させる前に、同作のシングル「Hearts On Fire」をMyspaceで公開している。その動きは世界中に波及し、主要都市でオーストラリア出身のアーティストのコミュニティが結成され、エレクトロニック・ミュージックを発信、またはライブを行ったりするのが当たり前になった。オーストラリアの黄金時代は2000年代終盤にピークを迎えたが、ここで思い出してほしい。昨年1月、Rüfüs Du SolとFlumeが両者ともグラミー賞の最優秀ダンスミュージックのカテゴリーにノミネートされたことを。つまり、今日のオーストラリアの音楽シーンは良い循環を生むシステムを持っているのだ。「僕らが始めた頃はまだ小さかったけど、そのスケールは今じゃ巨大だ」とMoyesは語る。

Cut Copy – 「Hearts On Fire」

Dan Whitfordはヨーロッパで数年過ごした後、昨年に故郷のメルボルンに帰ってきた。豪州内における1人当たりのライブ会場数で最大を誇るメルボルンは、間違いなく世界有数の音楽都市だ。Whitfordは、急成長中のメルボルンが20年後に「次のベルリン、またはニューヨーク」になると信じてやまない。2014年にメルボルンのアーティストによるコンピアルバム『Oceans Apart』をリリースするなど、彼はCutters Recordsを通して常にローカルの音楽シーンをサポートしてきた。

「僕は今までニューヨーク、ロンドン、ベルリンで作られたからといって、その音楽がここで作られているものより優れていると思ったことはないんだ。ある意味、ここで起こっていることはもっと面白い。僕らは地理的に隔離されているからね。他の場所で見る事が出来ない変わった生き物が独自の進化を遂げるように、ここで作られている音楽も同じように変貌するのさ」。

「僕らにはオーストラリアで一風変わった音楽を作る機会が与えられた。それはなんだか特別なことで、世界中で知られるべきことのように感じるよ」。

黄金時代を代表する12曲は以下からチェック。


Words_SCOTT CARBINES
Edit_YUKI KAWASAKI

 

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