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FEATURES

WHITE NIGHT WEEK SHIBUYA 2019 – TALK SESSION「ナイトシーンのリビングレジェンドが語る今昔、未来」

文化は、夜に生まれる。

Mixmag Japan | 3 December 2019

White Night Week Shibuya, 佐藤俊博, 芝浦GOLD, 臼杵杏希子, mixmag

「東京・渋谷から夜の経済振興・文化振興」をテーマに、東京のナイトカルチャーを考えるプロジェクト「WHITE NIGHT WEEK SHIBUYA 2019」。渋谷の夜を盛り上げ、この街からカルチャーを発信していこう、それにはこれからどのようにしていけば良いのか、といったことを考えるプロジェクトなのだが、その議論と体験の場が、約1週間に渡り渋谷O-EAST 5階特設会場にて開催された。夜のベテランから、これからの新世代まで、各業種のさまざまなキーパーソンが議論の場に登場し、熱いトークが交わされた数日間。これからのナイトシーンにとって、必要なものとは何かを得ることができたのではないだろうか。

White Night Week Shibuya, 佐藤俊博, 芝浦GOLD, 臼杵杏希子, mixmag

トークショーの第一回目に登場したのは、70年代後半から数々の革新的なナイトクラブ、バー、飲食店をプロデュースしてきた正真正銘の夜の帝王、佐藤俊博さんと、80年代はニューヨークで暮らし、伝説的なパーティを体験してきた生粋のクラバー&ミュージックラバーの臼杵杏希子さん。日本のナイトシーンの昔と今、そして未来に対しての話を聞かせてくれた。またこの日はDJセッションで、日本のダンスミュージックシーンを牽引するDJのDJ NORIと、DJ EMMAがプレイ。カンファレンスをサポートした「ジョニーウォーカーブラックラベル12年」より、人気のドリンクメニュー「ジョニーハイボール」が振る舞われていた。

White Night Week Shibuya, 佐藤俊博, 芝浦GOLD, 臼杵杏希子, mixmag

右: 臼杵杏希子

White Night Week Shibuya, 佐藤俊博, 芝浦GOLD, 臼杵杏希子, mixmag

佐藤俊博


― お2人のご紹介を、ご自身よりお願いできますでしょうか?

佐藤俊博(以下、 S) 〈ツバキハウス〉(*1)をはじめ、お店をやってきまして、それからいろいろとあって〈ゴールド〉(*2)をやって、バブルが弾けて、またいろいろとあって、今は新丸ビルのほうで、丸の内の街づくりということで、お店をやっています。

臼杵杏希子(以下、U) 臼杵杏希子と申します。有限会社ティールという自分の会社ではDJや照明アーティストのエージェント、イベントや丸の内ハウスでの音楽ブッキング業務をやっております。また、ナイトシーンで活躍する女性たちによる「CHICKS ON A MISSION TOKYO」という団体を主宰しております。1960年生まれです。10代の頃からずっと佐藤さんとは縁がありまして、先ほどお話にあった〈ツバキハウス〉でも遊ばせていただいておりました。私がニューヨークから帰ってきて、〈ゴールド〉の頃から一緒にお仕事もさせていただくようになりました。今でも毎週末どこかのイベントには関与しているので、このあたり(渋谷)のどこかしらにおります。よろしくお願いいたします。

*1 ツバキハウス
1975年~1984年まで新宿3丁目にあったディスコ。日新物産が経営していたディスコで、佐藤さんは日新物産に入社2年目で店長を任せられる。1979年以降は時代の流れにより、パンク、ニューウェイヴ、ロックなどもがかかる店へ。芸能人、モデル、有名ファッションブランドのデザイナー、また文化服装学院の学生、ゲイピープルなど、東京中のイカした人々が遊びにやってきていた。黒服がいるディスコに相反して、Tシャツにデニムという従業員のスタイルを打ち出したたり、80年代に入り、大貫憲章率いるロンドンナイトがスタートしたのもここだった。

*2 芝浦GOLD
1989年~1995年にかけて芝浦・海岸通りにあった、佐藤俊博さんがプロデュースをした伝説の大型クラブ。オープン当時は、1階:ギャラリースペース、2階:DJブース、バー&フードカウンター、3&4階:天井が吹き抜けのダンスフロアとメインのDJブース、5階:BAR LOVE&SEXというフロア、6階:茶室をイメージし、ジャグジー式の風呂があった会員制フロアYOSHIWARA、7階はアジアのイメージで作られた TRIADというフロア。国内はもとより世界中から多くの著名人が訪れた。音楽はハウスミュージックを中心に、海外からの来日DJもプレイした。また、ファッションショーなども開催され、東京クラブカルチャーの発信地であった。

— お二人の共通点は2つあります。〈ツバキハウス〉というクラブが70年代後半~80年代頭にはあったのですが、あともうひとつが89年から始まった芝浦の〈ゴールド〉ですね。この2つについて今日はお聞きできればと思うんですけれども、まずは時代背景からお聞きしてもよろしいでしょうか。そもそも70年代後半に新宿3丁目で〈ツバキハウス〉を始めた経緯について、佐藤さんにお聞きしたいです。

S 70年代・80年代というのは、非常に面白かったというか、活気がある時代だった。その背景にはまず60年代に反戦運動とか、若い人たちの表現のひとつとして音楽やファッションが確立されたことがあります。それが70年代に入って形になっていって、80年代に入って熟成期に入って行きます。70年代半ばぐらいにはポパイが創刊されたり、ファッションだとBEAMSさんが創業したり、三宅一生さんとか、山本寛斎さんあたりがパリコレで活躍されたり、音楽では、やはり我々はアメリカに憧れていた部分があって、だけど日本でも独自の音楽が出来上がって、YMOがワールドツアーをしたり、音楽とファッションやアートが入り混じったような時代だったのかなと思います。それぞれの立場の人たちが独自の表現をしていって、元気に楽しく時代を作っていましたね。

― その当時、臼杵さんは文化服装学院に通われていたんですよね。

U この写真は、私のひとつ上の先輩たちが学校の宿題の一環で、YMOのレコジャケの人民服をまねて作ったものです(笑)。それがあまりにもカッコよかったんで、それを借りて友達と勝手に文化の講堂内で写真撮影をしているところです。本当にYMOが当時流行っていて、最初のテクノブームですかね? テクノカットっていうのもありましたよね。そういう人たちが遊びに行くところが〈ツバキハウス〉だった。そこに行くと好きな音楽がかかっていて、こういう自由なファッションも咎められなくて、他のディスコだと嫌われるんですよ。実は〈ニューヨーク・ニューヨーク〉(*3)とか行くと怒られる。一回〈ニューヨーク・ニューヨーク〉を出禁になったこともあって(笑)。確かに音楽とファッションがすごく結びついた時代でしたね、私たちにとっては。

S 音楽もやはり、ディスコミュージックからニューウェイヴの時代に入っていって、そのあとに大貫さんのロンドンナイトに繋がってくるんですけども。あとは、先ほどから名前が出ているYMOですね。そのときにはロンドンのニューウェイヴが日本にも流れてきて、プラスチックスみたいなバンドが誕生した。こういう環境(O-EAST)のライブハウスが当時はなかったので、ディスコでやっていたんです。

*3 ニューヨーク・ニューヨーク
1979年~1991年まで、新宿・歌舞伎町ジョイパックビル4階にあった、オオバコ人気ディスコ。絶頂期は週末に3000人入るほどの人気で、赤シャツで有名な松本みつぐがDJをしていた。

「色んなことが混ざり合っていたんですよね。それで新しい文化がたくさん生まれた」(佐藤)

― こちらは雑誌の「HUGE」で2008年に組んだ佐藤さんの35周年の特集のお写真をお借りしたものです。こういった著名な方々もいらっしゃいました。

2008年8月号『HUGE』特集「TOKYO NIGHT HERO 〜ライブレジェンド・佐藤としひろの35年間〜」より

U これは上が大貫さんですよね。右が桑名正博さんと百恵ちゃんと、西城秀樹さんが一緒にいる写真ですよね。これ実は佐藤さんが撮った写真ですよね。で、下が沢田研二さん。右の下がヴィレッジ・ピープルとリッチー・ファミリーの「Go West」の新曲発表会の様子です。

S 多分ね、色んなことが混ざり合っていたんですよね。それで新しい文化がたくさん生まれたのかなと。当時は何でもありで、人もいろんな人たちがいました。

―〈ツバキハウス〉を今思い出して、鮮明に覚えていることやハプニングなどはありますか?

S 言えないことばっかりですね(笑)。

― 近くに2丁目もあることから、ゲイの方々もいらっしゃったと思います。噂では佐藤さんは男性からもおモテになったと聞いております。

S 当時はゲイシーンがすごく閉鎖的で、2丁目も非常に排他的だったんですよ。僕も最初連れて行ってもらったときはブラックボックス(*4)があったり、NEW SAZAE(*5)があったり。女性のところはなかなか連れて行ってもらえませんでしたけども。中には色んな作家さんが集まるお店があったり、そういう人たちも70年代には〈ツバキハウス〉を通して混ざり合うんですよね。その頃はゴールデン街も2丁目も、今みたいにあまり一般人が行けるようなところではなかったですから。ツバキはサイズ的にも、混ざりやすい大きさだったんだと思います。色んな人がテーマを決めてパーティをやるんですが、そこから様々な文化が生まれていったのかなと。

*4 ブラック・ボックス
70年代に新宿5丁目のQフラットビルの地下にあったディスコ。男性が多く出入りしていた。同ビルの他の階には、美輪明宏や伊藤文学らが関わった伝説のお店も存在した。

*5 ニュー・サザエ
新宿2丁目に1966年にオープンし現在も運営している、老舗中の老舗、どんな人でも受け入れるディスコ。三島由紀夫、フレディ・マーキュリーも足を運んだと言われている。

2008年8月号『HUGE』特集「TOKYO NIGHT HERO 〜ライブレジェンド・佐藤としひろの35年間〜」より。右上の写真でクロード・モンタナとあるが、実際はティエリー・ミュグレー。

—〈ツバキハウス〉では、クラブの制服を初めてTシャツとデニムにしたと仰っておりましたが…。

S 当初はですね、我々水商売は蝶ネクタイをして、ひざまずいてサービスする時代だったんです。僕の時代ではTシャツは下着であると。そういうことでなかなか許してもらえないことがあって。このスーパーマンのTシャツはコシノジュンコさんがデザインしてくれたんですよね。そのあとにミヤケイッセイさんとか、当時のニコルとか、そういうブランドのデザイナーの人たちが特別にデザインしてくれたんです。そういうことからTシャツが定着してきましたね。

― 当時は黒服が他のディスコでは主流だったと思うんですが、そのスタイルはかなり画期的だったのではないでしょうか?

S そうですね。そのあとにまた、少し黒服の時代に戻るんですけどもね。特に70年代後半からはクロード・モンタナなど、いろんなデザイナーが海外からも来て、日本ではデザイナーたちが組んで東京コレクションがあったり、ファッションが非常に活発な時代だったなと思います。その中で我々もいろいろ学んで、勉強させていただくんですけども。

U この真ん中の写真も、上がティエリー・ミュグレーさんだったり、下がカール・ラガーフェルドだったり。佐藤さんといらっしゃるのが、稲葉賀恵さん(*6)ですね。

*6 稲葉賀恵
日本のファッションデザイナー。1970年に菊池武夫と大楠裕二とともに「ビギ」を設立。その後、ブランド「モガ」「ヨシエ・イナバ」を発表。

― この時代はデザイナーだけでなく、ブランドの顔となるプレスをやっている女性たちも、〈ツバキハウス〉にアンバサダーとして来てPRをされてたと。

U 私なんかは文化の学生でしたから、一番憧れたのはトップのメゾンにいたアタッシュ・ド・プレスの女性たちでした。例えばティエリー・ミュグレーのところにはザザ、イヴ・サンローランにはルル・ド・ラ・ファレーズ、ジャン=ポール・ゴルチエにはアナという、トップのメゾンにはめちゃくちゃカッコよくてキレる女性がいたんですよ。それを学生の頃に雑誌で読んで、すごいなって思っていました。当時はまだ10代だったので、それほど多くの方に会えてないんですけど、〈ツバキハウス〉に行くと有名なデザイナーに会えることがあったんですよ。それが学生にとってはとんでもないことで。普段は教壇の上に立っているような人が、ここでは同じ立場で遊んでるわけです。そこで私みたいな学生は、自分の作品見せたりしてました。そういうスペシャルな場所でしたね。

S 当時の海外のデザイナーは、日本の若い人たちがどういうスタイルに興味があるのかを知りたがっていましたし。

― 佐藤さんの名言で、「新しいことを始めると、最初はお客さんはついてこない。だけど、そのときに3人カッコいい人がフロアで踊っていれば、必ずその店は繁盛する」とあります。〈ツバキハウス〉で始まったロンドンナイトは、まさにそのひとつだったようですね。

S 音楽もそうですけど、やっぱり時代ってどんどん変わりますよね。クラブで音楽を表現するっていうのは、それに賛同して一緒に踊ってくれる人が必要になる。じゃないと、中々外にはアピールしきれないですよね。経営を考えたときにはやっぱり足踏みをしてしまう。でも、新しいものを育てていく必要はあるので、そういった要素を入れて行かなければなりません。ロンドンナイトもね、藤原ヒロシとか、高木完ちゃんなんかが、2~3人フロアで話してるだけだったんですよね。でも彼らはカッコよかったですから。それから半年ぐらいでロンドンナイトが盛り上がっていった。やっぱり、それぐらいの時間はかかると思いますよ。

― そこから10年ぐらい経って、その間に六本木の〈玉椿〉だったり、ショーパブの〈黒鳥の湖〉、ガールズバーのはしりでもある〈パラディッソ〉などを経営され、1989年に芝浦の〈ゴールド〉(*7)を始められるんですよね。

S 〈ゴールド〉に移行するときはですね、音楽シーンが相当変わっていたんです。マハラジャ系のディスコがすごく盛り上がっていて、これに対して「どうなのかな?」っていう疑問があった。アメリカではダンスミュージックがシカゴハウスに移行して、ニューヨークではパラダイスガレージが人気を呼んで、ハウスミュージックが生まれた時代だった。これは日本でもやっていいんじゃないかと思ったんです。それで最初は〈ゴールド〉でなく、六本木の〈トゥーリア〉に初めてフランキー・ナックルズを招聘しました。でも事故があって、なかなかそれが定着することがなかった。そのあとにハウスミュージックのためのナイトクラブとして〈ゴールド〉を作りました。ただ僕の場合は“色んなひとが混ざり合う”っていうのを大切にしてますから、7階建てのフロアにそれぞれ役割をつけた。ダンスフロア、入り口のアプローチ、会員制のお店、あと格闘技をやってるフロアとか、そういう構成の建物にしました。

― 〈ゴールド〉の上の階には一見さんお断りの「YOSHIWARA」というお店がありましたよね。更にその上にもお店があったりして、当時のお客さんには夢があったと思います。

S 当時はバブルですからね(笑)。それもすぐに終わるんですけど。「これから日本的なものを大事にしないといけないな」という時代が見えていたので、会員制のお店はそういう作りにしました。それまでの我々は海外から学ぶことが多かったんです。

― 当時、臼杵さんはニューヨークにいらっしゃったんですが、佐藤さんに呼び戻されて〈ゴールド〉に働くことになったんですよね。その頃のニューヨークのハウスシーンというのはどういうものだったんでしょうか?

U とにかく〈パラダイス・ガラージ〉が大好きだったので、毎週通ってました。段々、ハウスミュージックというものが出来上がる過程を間近で見られましたね。最初は「一体これは何なんだろう?」という感じだったんです。実は最初あまりなじめなかったんですが、ラリー・レヴァンが我々を洗脳していくんですね。まさに時代の変わる瞬間を見られました。アメリカの中でもブラックカルチャーが台頭していった時期です。マイケル・ジョーダンが大活躍を始め、スパイク・リーのコマーシャルや映画が人気になって行って、いろんな黒人のファッションデザイナーも誕生して。そんな中、〈パラダイス・ガラージ〉が大人気になっていきました。入場制限じゃないけど、なかなか入れないようなこともありました。

― クラブに通っていたその時期に、ニューヨークのとあるカフェで佐藤さんと再会されるんですね。

U 佐藤さんはお友達がニューヨークに住んでるというので、よくいらっしゃってたんですよね。セイントという有名なクラブのの角にあった24時間OPENしているカフェが「103」っていうんですけど、ある深夜、ぱっと入り口に見たら佐藤さんがいらっしゃって。もうビックリですよ(笑)。そこで再会を果たして、「じゃあ明日どこか遊び行こうよ」みたいな話をして。当時はiPhoneもFacebookも無い時代ですから、会えなかったらそれっきりでした。

― 〈ゴールド〉はサウンドシステムに本当にこだわっていたと。

S 60年代からずっと続いている問題ですけど、音楽がドラッグやフリーセックスと結びついていた背景があるんですね。70年代・80年代と色々ドラッグにまつわる社会的な問題があって、1989年に〈ゴールド〉がオープンするんですけど、その時はいろんなことが変わらないといけなかった。で、ドラッグはやめましょうと。だから〈ゴールド〉にはサウンドシステムに関して様々な仕掛けがありました。

2008年8月号『HUGE』特集「TOKYO NIGHT HERO 〜ライブレジェンド・佐藤としひろの35年間〜」より

― 〈ゴールド〉にはどんな方がいらっしゃってたんですか? 喧嘩も多かったとお聞きましたけど。

S 今も第一線で活躍されている方も多いので、具体的な名前は出せませんけどね(笑)。でも喧嘩するのも、僕は良いと思っていて。まぁ限度はありますけども。クラブの場合は自分の表現をどうするかってことを考える場所なわけですから。中には悶々としたものを抱えたまま、暴力に走る人もいる。だから毎晩2~3回そういうことがあるんですよね(笑)。でもひどいことにならないようにルールを決めてやりますよ。

— 個性的で、カッコいい不良が集まるイメージもありました。

S なかなか社会に馴染めない人の個性も尊重したかった。個性を活かせる場所も段々少なってましたし。個性的な人っていうのは自己主張も強いですから、それをみんなで共有するというのがひとつ大きかった。そういうのが新しい文化を生むのかなって。今までなかった個性が混ざり合うのが大事なんです。やっぱり自分勝手な人は社会で成功しますから(笑)。クラブって本来そういう場所だったと思うんですね。

ロシアンレストランVOLGAにて、佐藤氏と臼杵氏

「社会的なものが唯一排除される時間が夜なんですよね。それが外れて個性が出るのは夜しかないです」(佐藤)

― 〈ツバキハウス〉や〈ゴールド〉から生まれ出たものってたくさんあると思いますか? 昼と夜を比べるわけではないんですけども。

S いや、文化はね、夜からしか生まれないですよ。昼から文化は生まれませんから。社会的なものが唯一排除される時間が夜なんですよね。みんな社会的な責任をもって生きてるじゃないですか。それが外れて個性が出るのは夜しかないです。そこで出会う人たちは自分にとって非常に大事な存在になり得ます。もちろんダメな人もいっぱいいますけど(笑)。

U ずっとクラブシーンで生きていると、私も何度もそういう場面を見てきています。だからもう信じるしかないというか。〈ツバキハウス〉や〈ゴールド〉もそうだけれど、〈パラダイス・ガラージ〉でもそういう瞬間に出会いました。(〈パラダイス・ガラージ〉では)例えばその夜にプレイされた音楽が翌月には大ヒットしたり、ファッションがトレンドになったりを見ると、この空間だけはほんの少しだけ未来に近いのか?と感じざるを得ないような凄いパワーを感じました。〈ゴールド〉にも色んな人が来ていて、毎週何かしら新しい出会いがありました。

― 今のナイトライフシーンってどう思われますか? 時代のあり方っていうのが象徴されるのがナイトタイムだなと思うんですけども。

S いつの時代もそうなんですけど、コミュニティ作りっていうのが大事なんですよ。今日も若い子たちがたくさん来てますけど、コミュニティがあるようで感じられないんですよ。いつの時代も街っていうのは、六本木もそうですけど、コミュニティがあるんです。そこにいる人たちが色々なものを作っていく。そのコミュニティは外から来た人が作るわけじゃなくて、歴史が積み重なってできていくもので。渋谷で言えば西武なんかが関わってコミュニティが出来てたんですね。そういう意味では、渋谷はもう昼に文化を作れる街ではないですから。今どんどん開発してますけど、文化的なものが生まれるとは思えないんです。これだけ路地が街から消えていくと、コミュニティ形成に残されたのは夜にオープンするクラブぐらいしかない。

― 渋谷はこれからも次々といろんな施設やお店が増えていくと思いますが、外国人の数が非常に多いじゃないですか。日本人らしさのアイデンティティを夜のシーンで表現するとしたとき、外国人に向けてどういうところで表現していくべきだと思いますか?

S ニューヨークを訪れた時にニューヨークらしさを感じるように、外国人も日本には日本らしさを求めてると思うんですね。その街で遊んでる人のコミュニティだったり、音楽もファッションも、その時自分たちが最も優れていると感じているものは彼らにとっても刺激だろうなと思います。

U 私もヨーロッパが好きでよく行くんですけど、その良さはそこでしか生まれないものだと思っていて。たとえばベルリンにあるクラブ、ベルクハインを日本にそのまま持ってこようとしても無理なわけですよ。なぜならそこで遊んでいる人たちまでは連れて来られないから。で、そこで遊んでいる人たちが東京に遊び来たときに求めるのは絶対に同じものではなくて、何か共通項はあっても、やっぱりオリジナルなものなんですよね。日本もチョイスはいいんので、もっと自信をもってやったら良いと思います。DJのクオリティは東京もすごい。日本の子たちもクラブに行くときぐらいは自由にすれば良いですよ。好きな格好して遊べばいいしね。

― 先日、26歳の女の子が「私は夜を牽引していきたい!」という話をしていたんですけど、これからの人たちにアドバイスをするとしたら何でしょうか?

S 自分の思うことを実現するためにはそれなりのエネルギーと運が必要なので、くじけないことですね。こういうときにあまりアドバイスはないです(笑)。

― 日本では奇想天外なことは良しとされていると思いますか?

S 日本の教育では、みんなと同じことを求められるから、そこの発想は基本的にないんですよ。個性的な人は「病気じゃないの?」なんて言われてしまったりする。でも僕はそういう人のほうが正しいと思う。好き勝手やればいいというわけではないけど。
― 最後の質問です。この先の渋谷のナイトライフでお2人が挑戦したいことはありますか?

S さっきも言ったように文化は夜にしか生まれないので、そういう意味では夜のシーンがもう少しそういう視点で考えられるといいのかなと。たとえば渋谷のハロウィンでは色んなことが起きますけど、僕は決して否定的ではなくて。あのエネルギーとコミュニティ感が結びつけば、何かが生まれそうな気はしてます。

U 私は、「CHICKS ON A MISSION TOKYO」の運営にも尽力したいです。日本って昼間のジェンダーギャップが世界でも最低クラスなんですよ。149か国中110位。なので、夜のジェンダーギャップをめちゃくちゃ上げていきたいんです。「私はオーナーになりたいんだ」とか「私はオーガナイザーになりたいんだ」と考える女性がもっと増えてほしい。いろんな人が参入することで、いろんなアイデアや楽しみ方ができると思います。


Text: Kana Yoshioka

■ WHITE NIGHT WEEK SHIBUYA 2019
11月5日(火) 〜11月7日(木)
@ TSUTAYA O-EAST Bldg. 5F 特設会場
<イベント詳細>
https://www.white-night-week-shibuya.jp/

<プロフィール>
佐藤俊博 _株式会社テーブルビート代表取締役/有限会社佐藤商品開発 代表取締役
1952年、山形県酒田市生まれ。1970年代のディスコブームを牽引した日新物産に入社。ディスコ〈玉椿〉〈ザ・ビー〉〈キッス・レディオ〉などを手がける。独立後、ファッションビル〈VIVRE〉のプランニングや、原宿〈クラブD〉、六本木〈パラディッソ〉、赤坂アークヒルズ〈ADコロシアム〉、六本木〈トゥーリア〉、大阪〈ゲネシス〉そして芝浦に伝説のクラブ〈ゴールド〉を開業。その後、バー〈夜光虫〉、恵比寿〈ミルク〉、〈ぶた家〉、歌謡BAR〈X + Y〉をオープン。2007年には東京駅前の新丸ビルで「生産者と消費者をつなぐ役割」をテーマにした「MUS MUS」をオープン。また、オフィスワーカーの交流の場所として〈来夢来人〉をオープンしたほか、京都府舞鶴市の「赤れんがパーク」のブランディング事業のプロデュースや、「海の京都」「お茶の京都」のアドバイザーも務める。

臼杵杏希子_TEAL Inc.
1960年大阪生まれ。父親の仕事がディスコやナイトクラブ運営会社であったことから10代よりナイトカルチャーと密接な関係を持つと同時に70年代の歌謡曲、洋楽及びファッションに多大な影響を受け育つ。文化服装学院在学時はアシスタントデザイナーを目指すが、80年代のニューヨークにて〈パラダイス・ガラージ〉、〈ザ・セイント〉などでの黄金期ダンスカルチャーライフを経て、1989年芝浦〈ゴールド〉のプレス及び企画の仕事に就く。その後エラインターナショナルの運営する店舗、〈ミルク〉、〈ヴォルガ〉などにも携わる。1999年独立。2006年有限会社ティールを設立。現在は、アーティストマネージングや、新丸ビル7階丸の内ハウスのフロアにおける音楽全般の業務を担当。2019年、ナイトシーンで活躍する女性たちの会議「CHICKA OS A MISSION TOKYO」を立ち上げる。

 

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