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MAXIMUM LEVELS:エレクトロニック・ミュージックを世界的な現象に昇華させたAVICII

EDM革命にパワーを与えた重要なスウェーデン人プロデューサーへの追悼文

Mixmag Japan | 24 April 2018

Mixmagの米国デジタル編集担当、Valerie Leeが、EDMを世界のステージへと持ち上げ、28歳という若さで他界、ダンスミュージック・コミュニティを震撼した「Levels」のスーパースター、Aviciiへの追悼文を綴った

私の知人の大部分は、初めてAviciiを体験した時の記憶を笑顔ながらに振り返る。彼の音楽は、2010年代の初頭から米国に(そして世界中に)激震を走らせたEDMを定義し、一世代のティーネージャーたちをダンスミュージックに傾倒させた。このムーブメントの規模感とAviciiの貢献度は、今振り返れば明らかだが、当時は、私を含め多くの者が、オープンな気持ちでダブステップからビッグルームへと飛び回り、大学時代の貴重なバイト代をフェスのチケットやパーティに着ていくためのオシャレな服につぎ込んでいた。革命の始まりであり、Aviciiの「Levels」といったトラックがそれの火付け役だったのだ。

「Levels」は、聴けばすぐに印象に残る曲だ。これを読んでいる方のほとんどは、おそらく私と同じダンスフロアを共有したことはないだろう。しかし、Aviciiの「Levels」と出会った瞬間は、克明に思い出せるのではないだろうか。最高の親友たちと肩を並べ、早めに場所取りをしたスポットでじっと出番を待ち、馴染みの4つ打ちが弾けるようなエタ・ジェイムズ「Something’s Got A Hold On Me」のヴォーカルに向けて花道を形作っていく。一瞬の沈黙は、クラウドの全員から息を奪い、突き刺すようなエタのコーラス・ラインが響き渡るためのスペースを確保する。そして突如、浴びせかけてくるようなメロディが、あの有名な「Levels」のブレイクへと発展していく。初めて聴いた時もドラマチックな体験だったが、それ以降も、度々、ラストを飾る一曲として再開したことだろう。

「Levels」は、おそらくAvicii(本名、Tim Bergling)が、その強力な影響力のキャリア中に制作した最高の一曲として語り継がれるだろう。スウェーデンのストックホルムに生まれたAviciiは、18歳の頃に音楽制作と出会った。ブートレッグやリミックスから始まった活動は、ダフト・パンクやスティーヴ・アンジェロにインスピレーションを受けつつ、次第にオリジナル曲の制作へと傾倒していく。その後、レイドバック・ルークの音楽制作フォーラムに参加するようになり、Avicii自身が、自分がハウスに興味を持ったきっかけと語っていたプロデューサーの元へ、最大で週に5曲ものペースでデモを送るようになった。その後、レイドバック・ルークは、Aviciiの初期の曲をプレイした、最も早いDJの一人になる。

独自のメロディック・ハウス路線に地盤を見出したAviciiは、その後、TiëstoやPete Tongに発見される。Tongは、自身がホストを務めるRadio 1のコンペティションでAviciiが最優秀賞を獲得した後、Aviciiの人生初めてのリリース「ManMan」を発売へと導いた。

2010年までにAviciiは、Robyn、Little Boots、Dizzie Rascalなどのリミックスを手がけ、自身の「Bromance」をヴォーカル中心に刷新した「Seek Bromance」(Amanda Wilsonをフィーチャリング)を含むオリジナルを数曲を公開済みだった。

そして、あのアンセム調の、エタ・ジェームズをサンプリングした「Levels」(「Le7els」の表記もある)が誕生し、エレクトロニック・ミュージックをポップスやラジオの世界へとクロスオーバーさせた。そして同時に、Aviciiをスーパースターの世界へと飛翔させた。2012年にはUltra Music Festivalのクロージング・アクトを務め、ポップス界のアイコン、マドンナが登場したシーンでは、同フェスのストリーム再生数の新記録を樹立した。その後、ニッキー・ロメロとのコラボ作「I Could Be The One」で、すぐに再びヒットを飛ばした。そして翌年、Aloe Blaccをフィーチャリングしたアンセム「Wake Me Up」が登場、EDMにフォークの息吹を吹き込み、Ultra Music Festivalのメインステージと全世界を狂喜乱舞させる、記憶に残る瞬間を生み出した。その後、「Hey Brother」や「Addicted To You」などのヒット作を含む、2013年のアルバム『True』をリリース。

無論、音楽が先にありきだが、楽曲を超越したAviciiの影響力は、彼がアーティストとして歩む道のりのみならず、DJやダンスミュージックのアーティストが他ジャンルのアーティストと同様のスポットライトにふさわしいことを世界に訴える道のりにおいて着実に前進していることを物語っていた。Calvin Harrisがストロボの洗礼を受けるはるか以前に、Aviciiはラルフ・ローレンのキャンペーンにてモデルを務めた。2012年には、コーチェラの出演陣に名を連ねるという快挙を成し遂げ、スヌープ・ドッグやDr. Dreなどの巨人たちを相手に、誰もが羨むクロージングの座をもぎ取っている。そして、自身のPlaystation版ビート・マッチング・ゲームの主役にもなった。彼は、もはやアイコンだった。

しかし、富と名声には、それに比例し、肥大した需要に応える重い責任がついてきた。2011から2016年まで、261週間の間に、Aviciiは世界中を飛び回り220回のDJ出演をこなした。

ロックンロールはルールに反抗したかもしれないが、エレクトロニック・ミュージックの世界には、もとよりルールなど存在しない。知らず知らずのうちに、Aviciiは「ロックスターDJ」の生活を歩むようになった。220回のDJ出演には、220箇所における享楽的な楽屋や会食などの接待がセットされていたことだろう。2013年には、Aviciiは23歳の若さにして、アルコール中毒による急性膵炎を患った。その翌年には、深刻な腹痛のため入院、胆嚢を切除することになり、Ultra Music Festivalの土曜日におけるヘッドライナーの出演をキャンセルせざるを得ない事態に陥った。

下降する健康状態とは裏腹に、トップの座を守り続けるプレッシャーは増加の一途をたどっていた。2012年のインタビュー時にも、既に「忙しくて忙しくて」、「全く自由時間がなく」、自分が今、どこの国のどの街にいるかも分からなくなることがあると語っている。2013年のオーストラリア・ツアー時(2013年の有名な入院騒ぎの前)の映像には、混乱し、亡霊のようにやつれたAviciiが、フェスティバル出演に向かう車中で、朦朧とした意識の中、スケジュールを確認するマネージャーに対して今日の日時も分からなくなっている様子が映し出されている。

しかしそれでも彼はやめなかった。そのままの勢いで2014年に突入し、2015年にリリースされたアルバム『Stories』のために70曲とも言われる楽曲数を手がけた。また、Coldplayとラジオでも大ヒットした「Sky Full Of Stars」をリリース。これらは全て怒涛のツアー・スケジュールをこなしながらだ。彼はGQの取材に答え、ライブパフォーマンスの重圧が凄まじく、人前に立つための勇気と自信を与えてくれるのがアルコールだけだと語っている。
2014年、彼の25歳の誕生日を皮切りに、2015年一杯まで、Aviciiは出演を延期することが頻繁になっていった。一部、予定通り出演した場合も、舞台に立つ彼の姿は明らかに弱っていた。しかし、それらの明白なサインも、特急Avicii号の暴走を止めることはできなかった。2016年には、Aviciiがヨーロッパで6番に急成長中の企業であることを企業誌が報じた。Coldplayやジョン・ボンジョビといったビッグネームと作業するようになっていたAviciiは、引き続きとめどなくリリースを重ね、常にエレクトロニック・ミュージックの境界線を広げ、ポップス、その他へ浸透していく方法を模索し続けていた。

そして、2016年の春。彼は、年内にライブ出演やツアーから撤退することを発表した。自身のフェイスブックにて、Aviciiはこう語った。「これだけたくさんの夢を叶えさせてくれて、本当にありがとうございます。このような体験と、成功を支えてくれた、僕のチームと、大好きなファンの皆さんに、一生、感謝の気持ちを忘れません」。
「心の中には、これで終わりだとは思っていない部分があります。戻ってくる可能性はありますが、すぐに戻ってくることはありません」。

最後のDJセットは、イビザのUshuaïaで、8月28日に披露された。5年続いたレジデンシーの最終回だった。

2016年の暮れには、Aviciiの名前は、既に現代エレクトロニック・ミュージック界よりも、音楽史において重要な名前になっていた。同時期、彼は長年のマネージャーAsh Pournourni、そしてマネジメント・チームAt Nightとの決別を発表した。インスタグラムのフィードはセルフィーと旅行写真に塗り変わり(時折スタジオのショットはあった)、スーパースター・ミュージシャンというより、旅行好きの一般男性のフィードのようになっていった。

2017年、Aviciiが公の場所から少し影を潜めたのは、良い変化の訪れを予感させた。新しいEP『AVĪCI』のスニペットを公開し、「音楽活動を再開でき、嬉しく思っている」と語った。ツアーを引退し、スタジオ・ワークに注力出した時期を描いた『True Stories』というドキュメンタリーも発表された。

EDMに対する考えがどうであれ、世界中の人が、Aviciiという若者を応援していたような気がする。彼は、音楽制作で成功する保証が全くない中、18歳で旅に出た。仕事に対する強い倫理観に圧倒され、歌のクレジットに記載されたただの名前を超えるプロデューサー像を確立する強い信念に突き動かされたAviciiの人生は、彼のエレクトロニック・ミュージックとその歴史に刻まれた彼の手形であると同時に、明るいろうそくほど早く燃え尽きることを静かに警告してくれる。

「彼は言った、『いずれ、この世を去ることになる。だから、記憶に残るような人生を送るんだよ』と。」

AVICII、「THE NIGHTS」より

 

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